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愛しい家族、愛しい人との対話 _ 静かで 心穏やかなひととき

他界された愛しいご家族や方々との対話回想、思うところを書いています。

サイン(知らせ)というもの 

他界した大切な家族から、

愛しい人から、

愛犬、愛猫、愛鳥・・・から、

「 ここにいるよ。」

というようなサインが欲しいと願ってしまう_

そう思われて自然だと思う。



人から、本から、

「 私はこう感じた。」

「 私はこう聞こえた。」

などと見聞きすると

どうしても、うらやましい・・・となる。

なかには

焦るような気持ちに似た複雑な感情も

ご自分のなかで感じるかもしれない。



" 愛しい人や家族と会いたい。"



この気持ちを 冷静に見つめることを

望んでも良いのなら 望みたい。

なぜなら、

こうした気持ちをかきたてるような書籍や

ワークショップ(講習)というのが星の数ほど

有るから。

もっともらしいことが書かれ、

その気にさせられるようなことを言われる。



こうしたことをすすめるのは、

おおよそ、

宗教的な背景があるか、

または、

ビジネス的な背景が存在する。

" 広めたい " からだ。

誰のために?

もちろん、書き手、伝え手の私腹のために。

子どもの頃からの そうした経験をし続けている人ならば

ご理解頂けると思うが、

広めようとは 到底思えない。

様々な・・・実に様々なことがあるから。

こうした事というのは、

美しくて素晴しくて良いことだらけ!ではない。

人知れずなことを嫌というほど味わっているので

そんな思いを相手にさせたいとは思えない。

相手の身になれば そうは簡単に勧められない。

だから、私などは そうしたことを勧める、

簡単と言う人の気が知れない。



どんな時にも、

" 物事には すべて二面(表と裏)がある "

このことを頭の片隅に置いておかれると善いと思う。



サインが欲しい、

サインに気づきたい_

その発信先が

愛する人や家族からを希望する人もいるし、

自分を守ってくれている存在からを希望する人もおられる。



とにもかくにも、

自分以外の誰かからの " はっきりした知らせ " があれば!

安心できるのに!

というのが 正直なところだろうと思う。

厳しいことを言うようだが、

そう思えてるうちは 最善を尽くせてはいない。



逆に、

常にいろいろと " 言われ続ける " と

もうウルサイ!となる。

ほっといてくれ、と。

人の感情というのは実に様々だ。



サイン(知らせ)というのは、

自然のひとつだと私は思っている。

自然現象のひとつ。



自然現象の例としてあげるなら、地震。

これだけ技術が発達しても

優秀な頭脳を持つ人々が絶え間ない研究を重ねても

完璧な地震予知というのは ない。

天気予報も、そう。

最近の天気予報は、天気が実際に変わってから

表示も変わる。(苦笑)

自然というのは、人間が考えているような

そんなスケールだとは思えない。



なんでもかんでも 人間都合で

自然が反応すると 思う方がおかしい。

それと一緒で、

あちらからのサインというのも、

それに似ている。

そう思われた方が良い。

自然現象に対して、努力したら、練習したら、

訓練したら何とかなる!と思うのは 甘い。

コントロール出来ると思うのは 間違い。

コントロールすべきは、自分の感情。

抑制・他と比べることなどは 自分の範疇だ。



自然、自然現象に関しては、コントロールは無理。

そんな欲を抱くよりも、畏怖畏敬の念をもつこと。

真から理解していれば、世の中で浮き足立っているような

軽々しい感覚など 望めなくなる。言えなくなる。

言葉では例えられない気持ちになって 自然。

おそれおおいと思えて、自然。

それが、自然への尊敬態度。



サインがなければ、

サインを感じられなければ、

愛しい人との

愛しい家族との

信頼や心の繋がりが信じられないのだろうか?



良い時もあったし、

ケンカした時もあったことが、

サインをくれなければ

帳消しに なるのだろうか?



そんなわけは ない。



信頼や愛というのは、

サインでは計れない。



愛する人と出会った、

家族と成った、
( 戸籍は問わない )

愛する子を授かった、

自分より小さき動物を家族同様愛せた、

少しの間でも同じ屋根の下で暮らせた、etc...

これらの奇跡を

サイン(知らせ)などで 計れるものではない。



計るの?

私は 計れないと思う。



日本における " スピリチュアル " という言葉が

薄っぺらく、情けなく思える理由は

ここに ある。

なんでもかんでも、手軽に捉え、

綺麗ごとを並べ、

魔法かなにかのような便利ツールとされ、

商売じみ、ブームと化する。

事の真相を捉えようとしない。

肩をすくめるしかない。





誰かを 心から大切に思える その心があれば

他に何を望むというのだろう。

何が望めるのだろうか。

何を疑おうとしているのだろう。



心を疑ってはいけない。

愛する家族の心を。

あなたの心を。



自分の不安をサインで天秤にかけることなかれ。

巷で言われているようなチープな " サイン " に

惑わされないこと。



愛を 計るな。

愛を 縛るな。

写真や思い出のものが手元になくったって

あなたの心に たっぷり愛が あるではないか。



大丈夫。

愛する人は、元気なんだから。








(追記:2/1)
これをアップしたあと、以前ご依頼くださった方から
メールを頂戴しました。
- - - - -
まさにこのテーマで自分が駄目な人のかと感じていました。
(中略)
今日、ずっと通った○○の会がありました。
終わった後、サインの話しになり、
一度も感じない私は自分が鈍感なのかと思い、
勉強が足りないと考えていたところでした。
アガサさんのブログで、自分の勘違いに気付きました。
サインを感じられなくても、○が見守ってくれてることは信じられます。
○○達も含め家族が元気でいられること、
その奇跡に感謝しないといけないとおもいました。
- - - - -
団体の中に自分を置きますと、どうしても、多数の意見が
まるで「正しい」かのように、「普通」であるかのように
聞こえ、捉えられてしまいます。
しかしながら、ひとりひとりじっくりと尋ねますと、
決して、賛成であっても意見や感覚というのは違ってきます。
私がスピリチュアルな団体に属さない、賛成しかねるのは
源となっている「個人の自由意思」というのが抑圧される場
であるからです。

見えないことほど、良識というのは大切です。(アガサ)














ティッシュで 突然作られた「ねずみ」ちゃん。
可愛いでしょう?(笑)
しっぽは、お菓子袋などをくくってあるアノ針金。
私の大切な思い出です。







アガサ 葉山在住
天国との対話 愛しい家族との時間
~天国の人々の思いを伝えています~






Posted on 2016/01/27 Wed. 17:08 [edit]

category: 愛する人・家族との交流

thread: 心、意識、魂、生命、人間の可能性  -  janre: 心と身体

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27

一瞬の大切さ 

緊急な状態が 起こり、

油断ならない状態が 日常となると、

自分の心や感情と向き合うことになる。



次から次に やらなきゃならないことが増え、

まさに " 息つく暇もない "。



震えるほどの恐怖が襲ってきても、

( 実際、自然に身体は震えるけれど )

守りたい命が ある。



自分の目の前に、

自分の手に、

生きている状態と

数分後、どうなるのかわからない状態が

のっかかっている。



( どうする?)

( どうすればいい?!)



一瞬のうちに 様々な考えが ぐるぐると駆け巡り、

自分が動揺しているのだと気づく。



次の瞬間、

” 腹に力を入れろ。”

その声は 静かに 確かに 言う。



生と死の可能性を 目の当たりにすると

一瞬が とても重い。

一瞬一瞬が 貴重。

その瞬間は、普段のそれとは違う。

かといって 永遠とも思えない。

ただ、

ぎゅっとした、

強烈に圧縮した空間にいるように

思えた。



" うろたえるな。最善を考えろ。"

次第に、

冷静さが戻ってき、

現実を見つめ始める。

意識し始める。



最善。

何が 最善なんだろうか。

それが わからない。

わからないけれど、動かないと。

ゆっくり考えてる選んでる暇は ない。



最善・・・現実的に考えろ!

瞬間に考え、

瞬間に選んだら、

それに向かって動け。

それしか ない。



一刻を争う状態とは

ああいうことかと

後から振り返ってみて 感じる。



" 早く、普通に(通常に)戻ってほしい。"

" こんな状態は 苦しい。可哀想。"

誰が 苦しいのか

誰が 悲しいのか

誰が 可哀想なのか

そう思ってる " 自分 " じゃないのか?

いまいましい、自分の感情。

しっかりしろ、自分!

そう自分を叱咤激励しながら、

強い自分と 弱い自分の両方を感じながら

動け、動け、動く。



緊急事態を何度も経験すると、

自分の感情に 鈍くなるような気もする。

嬉しくないのは 当たり前。

悲しい、辛い、苦しいという自分の感情に

つきあってられない。

思ってみても仕方ない。

物事は すでに 起こったから。

前を向くしかない。



緊急事態を逸脱し、

考える余地が ふと与えられると

起こったことに対して、こうよぎる _

" あの時、ああしていれば・・・"

" あの時、ああしていたら・・・"

と。



一瞬、そうよぎるも、

心のなかで こう言い放つ_

" それは、ない。

「 たられば 」は 、ない。"

どんな事情や理由があるにせよ、

あの時、そう選んだ自分が いる。

そう選んだのだから

後悔は しない。



相手にとって

命にとって

最善を考える。

選ぶ。

動く。

寄り添っていく。

そこに 自分の感情など関係ない。

それが 多分、

最善を尽くす ということ。



一瞬の大切さは、

常日頃から 与えられている。

日常生活から。



自己中心な人間の集まりは、

血の繫がりがあろうと

家族ではない。

家庭には成りえない。

血縁関係がなくとも、

互いを思いやる心があれば

家族であり、

家庭と成る。



一瞬が、時間となり、

時間の積み重ねが 年月になり、

選んでゆくことの積み重ね。

自分の選択が、自分の人生を織ってゆく。



自分の人生は、

誰のせいでもない。

苦しい続き、悲しい続きは、

誰のせいでもない。

星のめぐりあわせとか、

そういう手相だとか、

運命だとか、

カルマだとか、

くそくらえだ。

自分の人生は、

自分が 選んで織ってゆくもんだ。



誰の人生にも、

楽しいことも、嬉しいことも、

苦しいことも、悲しいことも、

ある。

楽しさは お金で買えるほど容易い。

嬉しいことも 計算すれば出来ることもある。

けれど、

苦しみや悲しみは 種類が違う。

質が違う。



苦しみや悲しみは

必ず 自分の力になる。

必ず。



自分のなかに 留めず、

自然の流れにそって 循環させる。

すると、

自然なかたちで 熟成されてゆく。



いつしか、

慈しみの心と誠実さに変わってゆく。







" 人間は 考える葦である。 "

全くその通りだと思う。












ピンぼけですが、愛犬との散歩道でパチり。
このお花を摘んで、自宅で乾燥させて、種をとり、畑に蒔きます。
すべての行程を自分でするのは面倒くさいなという気持ちも、
次第次第に、自然の恩恵へと変化してきました。(多分。笑)








Posted on 2016/01/25 Mon. 12:47 [edit]

category: 思うこと

thread: 心、意識、魂、生命、人間の可能性  -  janre: 心と身体

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25

嫁には行かせたくない 〜 私の mistake 〜 

娘と一緒にお伺いしたいです_

たまにこう頂くお伺いがあります。

同行されるお子さんの年齢がある程度の年齢(18才以上)であれば

という返事に安堵されたYさん。



お越しになる前に、部屋でぼんやりしている私に

重なってこられようでした _

< お母さんに 会いたい・・・>

( 私も、母親にあったのは去年の夏ぐらいですよ、父のお葬式で。)

< もっと会えばいいのに・・・>

( ほんと。本当にそうですよね。今のうちなのにねぇ。)

そんなふうに、心の会話があったように思います。



待ち合わせ場所にお迎えにゆきました。

なぜか、娘さんが気になりました。

なんていうか、とにかく、惹かれる。



自宅に着き、一息いれたところで静かに交流を始めました。

お姿がまだ、ぼんやりする。

若いのに、若くないように思える。

どういうことなのか。

どうお伝えするのか。

そうこうしているうちに、

別のことを話されます。

< お嫁には行かせなくない・・・>

( お嫁に? それほど可愛いということですね?)

目にいれても痛くない!というほど。

お父さんかと思いはじめると

また、別の声が聴こえる_

" 若いけど、衰弱が激しい・・・”

そこから先が聴こえづらい。



私自身はひとりなのに、何人もいるような気がするし、

口々に それぞれに 自由に " 話される "。



「 彼は スポーツが得意のようです。多分。・・・

 ううん、違う。多分なんかじゃない。

 得意です。

 走るのが速かった。」

Yes か No かの反応さえ、夢うつつのような状態。

「 少し空気が変わりました。

 別のことを話されています。

 ・・・なんだろう。お料理のことをおっしゃっています。」



ここで、Yさん母娘さんの反応が聞こえました。

「 食べることは、好きでした。」

とご協力くださるもどうも違う。納得がいかない。



「 いえ。もっと・・・なんていうか、なんだろう・・・」

( 苦戦する私に、あちらからの助け舟がやってきました。)

「 お料理をされる。得意? 違う。得意ではない。

 でも、決まった料理をされるはず。

 あ、それは何だっけ。。。こんな料理道具は、なんだっけ。

 (ジェスチャーで道具を表現しつつ、)

 フライ返し? っていうんでしたっけ?

 フライパンで使うような感じの。

 それを持っておられるんです。

 何か、得意なのがあるはず。」



「 チャーハンです。それだけが出来ました。」

涙をふきながら、Yさんが、協力してくださいました。

そして、

「 息子です。」と。



「 息子さん? けれど、私にはそこそこの年齢に思えます。」

母娘さんおふたりで、顔を見合わせながら、

「 痩せていったから・・・髪の毛も薬で。年いって見えたよね。」

とおっしゃいました。



息子さん・・・。

だから、" 若いけど、衰弱している・・・” か・・・。

ミスだ、私の。

心から申し訳ないという気持ちで いっぱいになりました。

「 申し訳ないことでした。

 誰よりも息子さん、ごめんなさい。

 お若いのに、若くない気がするって言ってしまって。

 本当に、ごめんなさい。

 年齢は、私のミスです。」

おふたりは、

「 いいえ。とんでもない。」と慰めの言葉を下さいました。



「 それにしても、娘さんのことをとても可愛がっておられますよ。」

おふたりとも、ニヤッとされました。

娘さんが さらっと

「 シスコンだから。」

とおっしゃる。

「 シスコン?」

ピンと来なかった私。

次の瞬間、

「 あぁ、シスターコンプレックスね!(笑)」

「 なるほど!うまいこと言いますね!まさに、その言葉通り。」

若いって素晴しいですね。

言葉が実に軽やかです。感心しました。



「 なにか、お尋ねになりたいことはありますか?」と私。

「 はい。お墓のことを尋ねたいです。」とYさん。

( お墓のことであなたの意見を尋ねたいそうですよ。)

< お墓かぁ〜 ・・・>

「 『お墓かぁ〜』とおっしゃいました。」

「 (そういうふうに)言いそう!」とおふたり。

< 遠いのは・・・いやだな・・・>

「 『 遠いのは、いやだな。』と。遠いのは嫌だそうです。」

「 わかります。」

「 おわかりになるのなら、いいですね。」

「 はい。」

とおっしゃいながら、「わかります」とおっしゃった経緯を

話してくださいました。

なるほどと私も聴いていましたら、

< お正月は帰るから・・・楽しくやろうよ・・・しめっぽくならないで。>

( え? すみません。聴いていませんでした。もう一度話して。)

同じようなことをもう一度話してくださり、

そのまま、Yさんにお伝えしました。

その意味も、Yさんにはおわかりになったようです。

現実に、そのようにすると思っておられたようでした。



ぼちぼち、私の限界です。

頂いたメールの一部を掲載させて頂きます。



- - - - -

(略)

こんな言い方失礼かもしれませんが、
息子の声が聞きたいと思う半面、半信半疑のまま伺わせていただきました。
でもアガサさんのお話は
息子だったらきっとそう言うだろうな…そう言ってるな…と思えることばかりで、
息子が亡くなってから私がずっとひっかかっていたことが、すーっと心の中に
入っていくような不思議な感覚でした。
今日は(中略)久しぶりに息子と話をしたような、そんな気持ちになりました。

今も私たちのそばにいる…
時々だけど来てくれる…
息子は、自分の人生にきちんと向かいあい、
今自分が置かれている状況で自分のできることをしようとしている…
そう言ってもらったので、私の心の中の何かがほんの少し軽くなったように思います。

この○○…辛くて苦しくて悲しくて、自分だけが今もこの世に生きてることを
申し訳なく思いながら毎日朝を迎える度に息子に謝ってきました。
息子はまだまだやりたいことがあったはずなのに…と思うと、
どうにもならない悔しさと切なさに押し潰されそうになる毎日でした。
でも、○年間幸せだった…という息子の言葉を信じたいと思います。

- - - - -



メールの最後に「 ここだけの話ですが 」と

付け加えてくださったことが あります。

なぜ、私が娘さんを一目見た時、惹かれたのかが

ほんの少しわかったような気が しました。



家族共通の悲しみがある場合、

家族のほとんどが悲しみにくれ、涙を流す日々であると同時、

涙を流さない家族も、います。

流す涙は、悲しみの深い浅いでは ありません。

悲しいから 泣く、もありますが

泣くことが すべて、とも思いません。

泣けない状態が あります。

かといって、泣かずに 踏ん張るのが良い、とも思いません。



なんでもそうだと思いますが、

すべてに「 時(タイミング・機会)」が在るのだと思います。



いづれにしても、

自分の感情が 自然な形で表れるのは

速い遅いではないと思います。

ひとりひとりにあった " 自然のタイミング " が

在るのだと思います。



家族に、

人に、

命に 寄り添うというのは

命を 見つめることは、

真に 忍耐が要ります。

様々な感情との闘いです。

現実との闘いです。



だけど、

後悔など ありませなん。

愛するというのは、常にベストの状態で居れるわけでも

ないでしょうから。

ベストの状態でないからといって、自分が家族や相手を

祖末にしていると考えるのは 違うように思います。



後悔をしたならば、

後悔を活かすこと。



自分のなかで、慈しむ心を育み続けること。

それが 最善だと思います。
















愛犬との散歩道でさまざまな風景に出会います。
上の風景は、私がもっとも大好きなひとつ。
寒くなってくると小鳥たちは、仲間と共に行動しますね。
子どもには「ああやって、寒い間、お互いを温め合うだろうね。」と
話しています。
微笑ましい限りです。
私たち人間も、「他よりも自分が」ではなくて、互いに温めあうことが出来れば、
分け隔てなく生きるということを大切に思えればと願うばかりです。
" お〜い、すずめさん達ぃ。私も今度くっつきたいよぉ〜!(笑)”
動物たちから好かれるって、本当にしあわせ気分ですもの。







アガサ 葉山在住
天国との対話 愛しい家族との時間
~天国の人々の思いを伝えています~



Posted on 2016/01/16 Sat. 14:32 [edit]

category: 愛する人・家族との交流

thread: 心、意識、魂、生命、人間の可能性  -  janre: 心と身体

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16

富士山 

今年もお年賀写真として送ってくださいました、

素敵な写真をご紹介します。



富士山の写真は、よく見ますが

こうしたものは見たことがなかったので

とても印象的でした。



撮影者は、Y・Kさん。

ご実家に帰られて、元旦と翌日に撮られたそう。

「 あまり暗くなると富士山が見えなくなるので

 両方が綺麗に撮れるのはちょっとの時間。

 寒くて指先が痛かったけど、撮影しました。」

とのこと。



ご堪能ください。














ありがとう、Y・Kさん!








Posted on 2016/01/06 Wed. 12:31 [edit]

category: 日常

thread: お正月  -  janre: 写真

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06

相手を受け入れる 〜 メールのお返事抜粋 〜 

ご依頼を頂いた後も、メールをくださいます。

人と人との心の交流です。

お返事の内容は、私自身の人生から経験してきたことを混ぜています。



相手を受け止める、ということについてお返事を致しました。

どなたも「 全く同じ 」ということはないでしょうけれど

心の振り返り、ということで読んで頂ければと思います。

(ご本人にお返事した内容に少し加えておきます↓。)



- - - - -

幼い頃の寂しさや辛さというのは、大人になっても存在します。

残ります。それは、身体や心の奥深くに在るんだと思います。

誰しも多かれ少なかれ、幼少期の楽しくないことは在ると思います。



私の叔母(母の妹)には障害がありました。

子どもの頃に高熱で知的障害となったようです。

お盆と年末年始に叔母が施設から実家に帰って来ました。

障害と思ったことはなく、

ストレートに伝わりにくい。では、どう伝えるのか?_

相手がどうこうではなくて、自分はどうコミュニケートするのか?

叔母と話をする時、子どもだった私は必至だったように思います。

お盆と年末年始以外は、祖母が何時間もかかる入所施設へ

面会に行っていました。

祖母のちょっとした表情、他の家族への気遣いも私は

敏感に反応していたように思います。

なんでもないよ、という態度の裏側で。

お店をしていた祖母は、元気で勝ち気でなきゃ

やってられなかったと思います。

私が小学生になった頃には面会時には「 私も行く」と言い、

付いて行ってました。

そうした経験もあり、障害を持つ家族がいる、ということも

少しですがわかるように思います。



障害も様々です。

大変と思えば、大変です。

けれど、誰も責めることは出来ない。

母は、自分の妹に障害があって、

子ども時代だけでなく、結婚してからもずっと

母なりに思うところがあったと思います。

それは、母本人にしか気持ちはわかりません。

祖母には祖母の思いがあり、

祖父には祖父の思い、

父には父の思い、

私の兄弟たちには兄弟なりの。

当人でなければ、心底までわからない。

誰でもそう。



障害者に対して、世間の様々な目があるのは私なりに感じています。

家族に障害を持つ家族が居ない人には、

現実、わからない(理解しづらい)ことも

多々あろうだろうと思っています。

それは、仕方のないこと。



この世は、思いやりのある人ばかりではないし、

思いやりのない人ばかり・・・でもありません。

その境遇、状態にならなければ わからないのです。

思いやることは出来ても、

その思いやりは他の人からみると また違う感情を

持たれるかもしれない。



自分の人生に起こることを 自分なりに受け止めるために

こう思ってきました _

「 所詮、経験したことのない人には、真意は伝わらない。」

って。

つまり、" 経験がすべて "。

経験が全てだと拙ブログにも書かせて頂いているのは、

そういう意味です。

経験したことがない人にどれだけ説明しても、

奥深いところまでは理解出来ないし

理解を求める方が 無理だと思うのです。

そういう意味での上記の割り切りをする私です。



兄弟姉妹に障害を持つ家族がおられる方は、

両親が兄弟姉妹にかかりっきりになる・・・

理解しなきゃと思っていても、幼な心に、寂しかったというのは事実。

けれども、ずっとそこばかりを注目してはなりません。

” 私はこんなに可哀想だったんだよ。”

そう思い続けても良いことはひとつも無いように思います。

こう思うのは、私も経験したことがあるからです。



相手を受け止める。受け入れる。



それも楽しいことではないことを受け入れる、受け止めるというのは

とても難しいことです。

容易いことではないと思います。

人間、誰しも 自分が可愛いもんだし、

自分を良く思われたい生き物です。

誰でも そうです。



嬉しくない状態、楽しくない状態を受け入れるには、

よっぽど、自分が困窮し、明日の生活さえもという状態に在り、

さらに、そうしたことを受け入れなければならない・・・

生きていかなきゃいけない・・・

こうした経験を 陰に思うのではなく、

光にしたいと心から望むこと。

まさに、

” それでも尚 " の生き方を心からすること。

周囲がどうであれ、自分が公明正大に生きる、

生きたいと望み、そう生きることを実際にする_

これしかないように思っています。



経験していないことに関して、

家族といえども、同じ気持ちを持つというのは

難しいかもしれません。

分かち合え、支え合えることは心強いですが、

かといって、そこにストレスを持ち続けても

仕方のないように思えます。

心に幅と深みがないと、困った状態の人のことは、" 他人事 "。

想像出来ないのです。

でも、恨んではいけない。

薄情だと思ったって仕方ない。



他を責めるのではなく、

他に原因や責任を当てはめるのではなく、

そうしたものは、

自分の心にも潜んでいるのだということを知った方が

様々な意味で善いだろうと思います。



人を受け入れることが出来る、出来ない、ではないと思います。

人間、出来ることもあれば、出来ないこともあります。

私なんて出来ないことばっかりです。

出来ない、知らないということを自覚しているからこそ、

気づくこともあります。

出来ることが、知っていることが、

人や動物たちの命を救ったり守ったりすることに

その勇気と努力と才能を使うことが、

人としての最善だと思うのです。



口先だけで、

" 人を受け入れている。"

" 優しくしている。”

” 思いやっている。”

” 知ってる。”

というのは 簡単。

誰にでも言えること。

そんなのは相手にしない。

本当にそうした行いをしている人は、

自分からそうしたことを言わないもんです。



何も焦る必要など無いと思います。

皆、似たり寄ったりです。



相手を受け止めるということは、

自分を受け止める、

ということでもあるように思えます。



自分を受け止めてやる。

自分を励ましてやる。

自分を説教する。

自分を褒めてやる。

たまに、そうしてあげることも大切と思います。
















2016年の幕開けは、季節らしからぬ暖かさです。
我が家では、昨年父の他界に配慮しつつ、近所の海や山へ歩いて行きました。
※人の多いところには行きたくない・・・ってだけかも。(笑)
山では、手作りの凧揚げしたり、珍しい形のまつぼっくりを拾ったり。
海では、シーグラスやさくら貝を探したり。
いつもと変わらない日常に、一日2時間程の徒歩を混ぜました。







アガサ 葉山在住
天国との対話 愛しい家族との時間
~天国の人々の思いを伝えています~





Posted on 2016/01/04 Mon. 15:37 [edit]

category: 思うこと

thread: 心、意識、魂、生命、人間の可能性  -  janre: 心と身体

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